「千と勢屋」武井豊子さんの草木染手織り松本紬


『武井豊子の仕事特別企画展』(於・松本市音楽文化ホール)2004年10月

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学生時代は油絵科に在籍していたのに科では一人だけ工芸の実習(選択外)を選択していたほど工芸好き、かつ職人好きの私。
そんな私なのに、恥ずかしながら武井豊子さんを知ったのはつい先ごろのことでした。
心を失うと書く日々の忙しなさに余裕を失っていたそのころ、はじめていただいた広告の仕事のディレクターが豊子さんの御夫君、覚太郎さんだったのです。そして松本紬の着物を「糸を繰るところから」作られる(!)という豊子さんのことを知ったのでした。
そして、覚太郎さんから興味があるなら、といただいた「千と勢屋」のパンフレットには草木染とは思えないほど美しい色の着物がたくさん掲載されており、それは私の草木染と紬の「素朴」と言うイメージをがらりと変えました。

そんな武井さんのつくる「信州紬」を、叶うならこの目で見たいと思っていたところ、音楽文化ホールで一日だけの展示がある事を覚太郎さんからお聞きしたのです。
松本紬(信州紬)の伝統工芸士である武井さんは、なんと糸の染色に使う植物の採集から(!)絣くくり、図案はもちろん染色、織り、その他細かな作業まで全ての行程をひとりで行うのだそうです。
また着物はすべて注文をいただいたお客様のために糸を染め、織るためすべて1点もので、その着物たちをお借りして開く個展は4年に一度。
行くことができなかった先の個展(帯展)が2003年なので、あと3年待たないとなりません…この機会を逃してはと、私は万難を排して(すべてを放り出して)会場へと飛んで行きました。

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興味はあれども染織のことを詳しく知らない私ですが、もともと私たちは全ての生活の糧を野山の恵みから得ていたのですから、現在まで化学繊維に囲まれて育った私にも、これら松本紬の持つ優しさと暖かさは伝わってきます。
私はと言えば子供の頃の行事であるぼんぼんで浴衣を着た程度で、着物にはとんと縁がない人生を送っています。
私だけではなく、現代の日本人にとって着物は、行事のときだけに着るきらびやかなもの、また茶事をたしなむ人のもの、と言う認識ではないでしょうか。
しかし、殆どの日本人が着物を着なくなったこの現代に、武井さんはひとり黙々と材料を集め、糸をくくり、染め、そして伝統にのっとった紬を手で織り続けています。

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武井さんの公式サイトの中の元長野県繊維工業試験場長永井千治先生の推薦文を引用すると、

── 県内全域で生産される紬の総称である「信州紬」の国の指定技法は、「信州紬の国による指定技法では、たて糸は絹糸又は天蚕糸又は真綿から紡いだ紬糸を用い、よこ糸は紬糸を使うよう指定されている。 ──

とのこと。
武井さんは自ら野山を歩き、集めた材料でその糸を染めるそうですが、天然の草木(や虫)100%の染材を使って作品を作るということは、今では相当の努力がいるのではと想像してしまいます。
そして武井さんは、紬を着る一人ひとりと会い、話し、好みと体系を考慮し、糸の色、デザインを決めていくのです。

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かつての信州で盛んだった生糸産業が衰退した今、武井さんが使用する天蚕糸は繊維のダイヤモンドと言われています。
そんな中でも武井さんはより良い糸を求め、草木染材でその糸たちを染め続けています。

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美しく織られた紬が日の光にかがやき、ほんのりと美しい光沢を見せていました。
やわらかく、ふっくらとした着心地の良さそうな紬に、思わず手を触れてみたくなります。
武井さんの織る松本紬は、親から子へ、そして孫へと幾世代にも渡って着ることのできる、丈夫な現代の着物です。

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帯に織り込まれたわれもこうの花の赤は、コチニールで染められています。コチニールはエンジムシ(カイガラムシ)から採る色素です。
カイガラムシは色々な木にくっつく害虫で、私もこの白くて硬い虫を見ると掻き落とすのですが、この時にびっくりするほど鮮やかな赤紫色の体液を出します。そしてこの色が衣服につくと、まず、落ちないのです。
草木には害虫となるカイガラムシも、自然染料をつかう人たちには、なくてはならない有益な虫なとなります。

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武井さんの屋号ともなっている「千と勢」は、かりやすの黄色が美しい紬です。

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かりやすの黄色が光に透けて、黄金色に輝きます。
ススキによく似た「かりやす」は古代から染色に使われ、八丈島の伝統紬「黄八丈」のあざやかな黄色でもよく知られています。
かつての草原が森林化し、開発されてゆく信州で、今どれくらいかりやすは自生しているのだろうか…と、豊かな植生が伝統工芸を支えていたことにも気づかされます。

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美しい虹いろが織りこまれたこの着物の名は「雨あがり」。
糸を織ることで、こんなに美しいグラデーションを描くことができるとは…。私は心底驚き、思わず見入ってしまいます。

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私はコンクリートの四角い建物の中ににいることを忘れ、まだすこし雨雲の残るうす紫の空に透明な虹がかかる、そんな美しい風景を目の前に見ていました。

1本の草、ひとつの繭が松本紬の1枚の着物になるまでには、気の遠くなるほど多くの工程があります。
それを幾度も積み重ね、手わざを極めてゆきながらも武井さんは、着物はあくまでも「着て美しいデザインになるように」と言います。
武井さんはまた、信州紬の伝統を絶やさないため、後進の技術者を育てようとされています。
全ての工程を着るひと一人一人に合わせ、織られた千歳に残る松本紬の着物。
着る人に寄り添い優しく包み込む武井さんの松本紬が、未来へ受け継がれていくことを願っています。


公式サイト:「千と勢屋」草木染め手織り松本紬

信州紬(ウィキペディア)

松本紬の武井豊子さん(松本市公式観光情報サイト・新まつもと物語)


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