第1章 「球はなくても棒で野球遊び」

 

 昭和3年(1928)に松本商業が全国優勝した8月は、私の生まれる2ヶ月前。松商に野球部が

設けられたのは大正2年だから、昭和初めには「野球」は松本近在まで根付いていたのだろう。

手元にある大正9年の写真は、何と当時の松本高女のお嬢さん方が本格的?な競技をしている。

ただし、これは軟式野球であるのかもしれない。

 大正7年になって、硬球の事故が問題になったのか、野球の普及のためなのか判らないが、日

本独特の「軟式野球」が始まったという。その昔の小学校で、この軟式野球は大いに普及したと

思う。何しろ、三角ベース(手ベースともいった)で遊んでいたチビたちどもにとって、ミットやグロ

ーブを使う野球は憧れの的だったから。たぶん3ー4年生頃から授業に取り入れたのか、もとも

と球技に不得手だった私に鮮明な記憶はない。しかし、仲のよかった女鳥羽町に住む清沢 平

たいら
君(大昭和製紙の重役にまでなった人。社長が野球好きの縁で入社、側近になって手腕を

発揮したらしい)が、松商野球に惹かれて入学し、甲子園にも出場していたことを思えば、小学校

にも野球クラブがあったのだろう。

 それはさておき、入学前、また小学校低学年のチビ少年の使う球は、「糸毬いとまり」といって総て

布製のもの。綿と芯しんに布切れで固く巻き、外側を太い本綿糸で滕かがった。2人で投げっこ、子

供が集まると三角ベースとなる。

 もっとも、この「糸毬」なるものは、かなり古くからあったものらしく、古記録の正月の記事に、「少

年は球杖きゅうじょう(ゴルフのスティックのような棒)で毬を打ちあい、少女は羽子つきの板で打ち合

う」とあるそうだ。いつ頃の習俗か、ご教示を得たいものである。

 糸毬野球は、所詮はベースボールの真似ごとに過ぎなかったが、それは次回に譲って、お待た

せの「棒野球」に移ろう。


 これは、野球とはいっても、「棒飛ばし」と言い換えたほうがよく判る。人数は多いほどよいが、2

人でもまあできる。これには、遮蔽しゃへい物のない細長い小さな空き地があればよい。空き地の端

に幅3センチ長さ15センチの穴を掘る。深さは5センチくらいか。バットにする長さ1メートル前後の長

い棒(桑の木の太目のものを使った)と、球の代わりをする10センチくらいで直径1.5センチの棒を作

る。

 球になる棒は、手で受けとめるので必ず皮を剥き、できれば軽いものがよい(生の桐ならよいが

乾いたものは風で舞うから、やっぱり桑の枝を使った気がする)。

 バッターはバット代わりの棒の先を細長い穴に差しこみ、穴に横渡しした短い棒を思い切り遠くへ

高く跳ね上げる。飛んで来た奴を、各自素手で受ける。受け止めればバッターに代る。誰もキャッチ

しなければバッターは続けられるのだ。受け損なって落したり、体に当たったりした時は減点してバ

ッターを続ける。穴と受け手の間隔は、参加する子の年齢にもよるが、1年生くらいなら近くて5.6メ

ートル。そこまで届かず落ちたり、塀に当たればファウルで3回でアウト。バッターの腕如何で受け

る位置をカンで決めるのもおもしろかった。

  

 多分、4歳ごろからこの遊びに加わったと思うのだが、通りを隔てたわが家の前の小路に三軒長

屋があって、その何軒目かにかなり年上のお兄ちゃんがいた。その子が上手に皮を剥ぎ、危なくな

いように角を丸く削って飛ばし棒を作ってくれたのを覚えている。

 地方によっては飛んで来る棒を籠や網や風呂敷ですくい取るルールもあったようだ。糸毬1個確

か5銭か10銭するのだから、ただでできる遊びとして棒野球は私が1年生になるまでは続いていた。

なぜなら、私自身が飛ばし棒を切り、削った記憶があるのだから。 (つづく   序章
 


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